【朝鮮戦争】1950年6月25日〜1953年7月27日
朝鮮全土を戦場として、韓国と北朝鮮が戦った戦争。韓国側にはほぼ米国で構成された国連軍が、北朝鮮側には中国軍が加わった。なお、当地では朝鮮戦争とは呼ばれておらず、韓国では、韓国戦争、韓国動乱、6・25など、北朝鮮では祖国解放戦争と呼ばれている。
1914年のころまで韓半島は朝鮮時代。45年までは日本の植民地時代。1945年8月、日本は第二次大戦に敗れ朝鮮半島の日本統治は終わった。自由万歳だったがあまりにも弱かった韓国は自力で立ち直る事はできなかった。
北緯38度線をはさんで南北にアメリカ合衆国とソビエト連邦による分割統治となった。運悪く、共産主義と民主主義の対立。1948年9月2日、ソ連軍が38度線を決めて、そのラインを中心に信託統治をすることを要求した。5年の信託統治の予定が3年ほどで終わり、1948年、北は金日成が中心となり朝鮮民主主義人民共和国になり、南は大韓民国という名前に変わった。
そして二つの国が自立するきっかけとなった。
このままの状態で維持されるかと思っていたところ、北は戦争の準備を開始。
北朝鮮の最高指導者だった金日成はスターリンに韓国への武力侵攻の許可を求めていたが、スターリンからの許可は得られなかった。
1950年1月12日、米国国務長官アチソンが「米国が責任を持つ防衛ラインはフィリピン〜沖縄〜日本〜アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言した。これを聞いた金日成は、これを西側陣営の韓国放棄と受け取った。同年3月、ソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、中華人民共和国成立後のアジア情勢の変化を受けてか、毛沢東の許可を得ることを条件に韓国侵攻を容認。同年5月、中国に訪問した金日成は韓国侵攻を中国が援助する約束を受ける。同年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越境、韓国へ侵攻した。ただし北朝鮮側は、当時から現在にいたるまで、韓国側が先制攻撃したものに反撃したのが開戦の理由だとしている。
北朝鮮軍の電光石火の奇襲攻撃に韓国軍は総崩れとなり、6月28日、首都・ソウルが3日で陥落した。6月27日、国連はソ連が欠席中に「北朝鮮弾劾決議」を採択、韓国を防衛するため米軍25万人を中心とする国連軍を結成した。
6月29日、日本に進駐していた米軍が急遽、朝鮮半島に派兵される。しかし、国連軍はなおも各地で敗北を続け、絶望的な戦いが続く中、米軍が大田攻防戦で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦、釜山周辺まで追い詰められた。
北朝鮮軍は再三にわたり大攻勢を繰り広げるが国連軍は徹底抗戦の構えを崩さなかった。連合軍総司令に任命されていたマッカーサーは9月15日に仁川に国連軍を上陸させることに成功し、9月28日にはソウルを奪回した。ソウルと釜山から挟み撃ちにされた北朝鮮軍は敗走を続け、10月20日に国連軍は北朝鮮の首都・平壌を制圧し、敗走する北朝鮮軍を追い、なおも中国国境付近まで進撃を続けた。
国連軍が38度線を大きく越えた時点で北朝鮮側は中国に参戦を要請。周恩来は国連軍が38度線を越境すれば参戦すると警告。開戦前の北朝鮮との約束に従って中国は、人民解放軍を派遣することを決定する。中国軍は、最前線だけで20万人規模、 満州待機も含めると100万人規模の援軍という人海戦術で国連軍を押し戻し、日本海側に陣取っていた韓国人部隊が総崩れすると国連軍も撤退を余儀なくされ、北朝鮮軍は12月5日、平壌を奪回し1951年1月4日にはソウルを奪回した。
それに対し国連軍は体勢を立て直すと反撃を加え、3月14日にソウルを再奪回し、戦況は38度線付近で膠着状態となる。戦況にいらだったマッカーサーは日本が一大工業地域として築いた満州に原子爆弾を投下しようとするが、ソ連を刺激することを恐れたトルーマン大統領は、4月11日、マッカーサーを解任する。
この後、停戦が模索され、1951年7月から休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方少しでも有利な状況での停戦を模索するため交渉は難航、結局1953年7月27日、板門店で休戦協定が結ばれ、北緯38度付近の両軍の最前線(これを38度線ともいう)が事実上の国境線となった。
一年強の間、ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、400万の死者が出たとされる。この戦争の結果、朝鮮の南北分割は決定的となり、それを背景に双方の政権(李承晩、金日成)は独裁政権として安定することとなる。韓国ではやがて民主化されるが、北側では今なを当時の臨戦体勢のまま、独裁が続いている。
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